思い出のページ


 
自己紹介局の現状紹介私の歴史館思い出のページこの指と〜まれ!

           ごめんなさい! 懺悔その1

 思えば、焼威爆弾跡の溜池の盛土脇で、「鉛筆キャップ」を使いセルロイド下敷きを細かく切った燃料とやらでペンシルとばしたりしてた小5の時、鉱石ラジオを手作りした。片耳イヤホンで放送がかすかに聞こえたのが、最初の出会いであった。
 「聞こえた! 聞こえた・・・音楽も」こんなエナメル線巻で!。
授業でも「理科」の時間で「鉱石ラジオ」を作り、イヤホンから微かに流れるラジオの声に魅せられた、その不思議さと「何故、線が無いのに聞こえるか?」と同時に世界の広さも感じたのであった。

 
そして、イヤホンから聞こえる音を大きくしたい・・・・と、ANT長さを2倍にしたり、2セットの鉱石ラジオを並列に接続したり、鉱石のバネを強くしたりしたがダメだった。
 鉱石を道で拾った「金属ぽい石」にも替えたが、ダメで挫折していた。
また、夜になるとなぜか中国語(後ほどRadio Pekingと分かったが)がフェージングとビートを伴って入ってきた。遠い異国に胸のときめきも感じた。


そんな時がたち、中学に入るとなんと夏休み宿題で金持ちのインテリっぽいヤツが「5級スーパー受信機」とやらを作ってきた。こちらは貧乏田舎育ちで並3球の購入代も親からもらえない。アルバイトもままならず、ただ羨望のGT管を眺めさせていただいた。

 真空管の間に四角のアルミ箱が2個立っていた。聞けば「中間周波数」とやらに変換しているとのこと、・・・・「金」出せばこんな世界があるのだと身に浸みた。
 頭にきて、誰も居ない時、その「中間周波数」とやらを変えてみようかと頭のネジを勝手に回した。音が聞こえなくなったので、アルミシャーシ下側もネジ頭をぐるぐるまわした。
 
その時、音が出なくなったがそのまま「そーっ」と帰ってしまった。『ご免なさい』!



      アマ無線とのかかわり、「生立ちの記」

 当時の夢は「ロケットで月に行く」こと(卒業アルバムに書いて失笑された)。その後、羨望であった「5球スーパーヘテロダイン」を製作、その頃の我が家庭は「TVは、無く電蓄のみで、趣味は田んぼで魚取り時代」理科目に夢中になり、中学生後半で「アマ無線」の存在を知り、高校進学勉強も忘れ2級アマの猛勉強を開始した。
(当時は、2アマが最低クラス)

 高校1年生(愛知工業高校電気科:クラブ局JA2YADになるや否や、学校から見える竹竿2本が空高く太い線が張ってある近くの「JA2RP」局を訪問することを決行した。
学校帰り庄内川を渡り田んぼの畔を行くと、そこに農家屋敷の廊下脇に紳士が迎えてくれた。


海外の声に魅せられて!  


JA2RP局訪問
竹竿ダイポールで、807で楽々と21,28M帯多数の海外局と交信の醍醐味を目の前で丁寧に充分に見せていただいた。
完全に「フェージングに載った英語のQSO」が脳裏に焼き付けられた。海外からのカードにも魅せられた。

 

 JA2RP局 写真

   またはQSLカード(予定)
  
*伊勢湾台風で紛失した。

 

   お元気でしょうか?

 なんとか今回を機会に歴史的な記念物を探しだしたい


JA2XW局訪問


「ワッチ、ワッチそしてワッチの大切さ」を教えていただいた。

 

14Mの2エレクワッドの威力と実現に可能性を示していただいた。 ANTのXマウントや鉄板作りの智恵を享受。

 

JA2XW 局

アパート屋上 東海地区最初の
14Mクワッド写真等*

JA2EQ局訪問


V、UHF配置と配線50M、144Mの達人
50MでVK,Wや海外局の味を教授された

 



     ごめんなさい!  懺悔その2 チョイ悪の楽しみ

 確か、当時の2級免許は「空中線電力100W」だったと記憶しているが、807をパラプッシュにしたり、米軍下がりの4-250を並べたり(ソケットやブロアー,高電圧トランスなんて手に入らないので、KR8CA湖上氏宅まで頂きに沖縄まで訪問した)我が物顔で「Your 1st Japan」!なんて言われ、いい気になってDX三昧で、有頂天になっていた。
 
免許条件が空中線出力であれば入力PWRは、「どれだけ入れたって電管様には分かる訳ない・・・・訪問測定しなけりゃいいんだ」と自分で言い利かせ、PWR増強に走った。


 しかし、DXCC150を越えだしたあたりから、パンザーマスト13m、ANTは米国モズリー3エレ(14Mhz)、スター社ST-700シリーズでも、あの「ときめき」を感じなくなり、DXCC局数が投資金額に比し、そんなに成果が上がらない『収穫逓減の法則』を身をもって体に感じさせた。

 周波数逸脱も7000KサイクルぎりぎりでA3電波を出し、電管様から何か言ってこないか・・・と期待もした。『チョイ悪をした、ご免なさい!』






 

我が家で第1回

  『JA2-DX愛好家のつどい』

 東海地区最初のDXer Meeting開催

  

昭和45(1870)年1月4日 於:JA2ANX宅にて

 

 

 

 

  会合記念写真の予定*

  会合記念サイン色紙の予定*

 

 

 

 

 

 

 


       ごめんなさい! 懺悔その3 世界最少の「木版のQSLカード」 

 6DQ5パラ自作機で14Mcメガサイクル(当時周波数はサイクル表示)で、DX海外局とQSOがだんだん増えてきた頃、QSL返信率を如何にあげるかに注力するようになった。
 JA1地区のトップガンどもに、勝つ秘訣は「耳と寝ないで授業中に寝る(夜間起きて日中寝るスタイルが誰もいなくて一発必中で珍局がゲットできたのである)ことで相当効率はあがったように記憶している。友達のノートをお酒のご馳走でコピーすればOKである、そのコピーは深夜自宅のノイズの中のCWワッチしながら眺めるだけで、まあ簡単に単位は取れた。雑音を除く耳とノートの講義中の余分な箇所を除く自動フルター機能で頭は冴え、ぼんくらの頭でもDX稼ぎと学習向上の二律背反の同時処理技術を磨いたものだ。

 ただ、QSLは相手の行動を動かさなければ、SASEでも返って来ない。
よって、目立とう・・・とのよこしまな考えで、カードに特徴を持たせるべく「紙でなく木製で印刷」(これは日本的と一人早合点で悦に入ってた)それが「我がQSLカードは木製版で世界最小(サイズは葉書大でなく名刺サイズであった)なんて『電波科学』誌に紹介されたので、益々、いい気になって、JARLのQSLビュローの手分け作業していた方には大変ご迷惑をかけた。
それから数十年、今QSLカード規格なる規範を見て『ご免なさい』!

 「FO8AQ」局からはゴムスタンプ印が押せないので、わざわざ当方のCallSigin上に重複して追加の紙を貼り、それにFO8AQゴム印スタンプを押してComfarmのサインまでもらった。
世界沢山の局から集中するQSL返信業務の大変さも省みず、我が1人のため貴重な手間を掛けてくれました。
本当に『ご免なさい』!





   *印は、写真等収集中、実家に帰らないとそして今、手にする事ができるか心配です。

      皆さんその頃の写真がありましたらご一報いただけませんか!

    FEDXPの各位:JA1BK,JA1BWA,JA1HGY,JA1BRK,

      JA2ADH、JA2ACC、JA2AAM数多くの局長さまにお世話になった。

 どうぞ!

     真空管と東京通信工業社(現在のSONY)TR-21の写真予定

トリオ社製9R−59写真を予定

初期の頃の「FEDXP会報」写真を予定

6DQ6×2SSB機、製作にあたって参考になった名著『SSB Hand Book』1961年12月臨時増刊号に大変お世話になり、飛躍的にDXが楽しめるようになった。入力200Wで竹竿で屋根に登って自作の2エレキュビカルが、私のハム人生の大半を歩んだ。
 DX初期の頃、[AWX ANT]でミスマッチも省みずDX局が入感すると、慌てて竹竿を移動させてQSOが充分楽しめた。その懐かしい軌跡をCQ Han Radio誌に掲載されそれが要約された。その
『SSB Hand Book』の表紙を見ていただきます。



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