午後の紅茶 “Afternoon TEA” this HP all pages is ISSN 2187-5049
なぜ、裁判所は、議会同様、ソフトウエアベンダに責任を課すのをためらうのか?
その答えは多少ほっとさせるものだが、欲求不満を起こさせることに代わりはない。
政治組織、軍隊、宗教団体などの、動脈硬化を起こした融通の利かない組織とくらべ、裁判所は柔軟性があって迅速だが、コモンローと良識の間には、常に一定のタイムラグがあった。それは社会にとって有益でもあり害悪でもある。
法のタイムラグとは、法律はそうすぎには変化しないので、短命で気まぐれなものにはならないということ、または、あまりに変化が遅すぎて、淀みゆがんだものになり得るということである。しかし、古い法律が新しい環境やテクノロジーに対応できないつ、混乱の期間が生じる。だから変化についていけるように、法律は修正され、更新されなければならないのである。
このプロセスはゆっくりしたものかもしれないが、他の組織のプロセスほど遅く混迷したものではない。
(中略)
ソフトウエアには不可避的にバグが存在することも、ベンダにとって頼りになる言い訳にはならない。それどころか、ソフトウエアには欠陥がつきものだという事実そのものが、無過失責任の必要性を如実に物語っている。ゾラーズのグループは、複数の判決を彼らの理論の根拠としているが、それらはすべて、従来ソフトウエアベンダーに対する訴訟を困難なものにしてきた障害について触れている。
ゾラーズが呈した疑問の焦点は、コンピュータプログラム内の情報は、書籍の中の情報と同列に見なされるかというものである。ゾラーズは、それは米国憲法修正第一条(信教、言論、出版、集会の自由、請願権)の意図するものとは無関係であると論ずる。ソフトウエアは著作権と知的所有権の保護を受けているが、ソフトウエアに含まれる情報は本の内容と同種の情報でなく、従って必ずしも著作物と同じ基準を適用する必要もなければ、同様の保護を与える必要もない。
しかし、この見せかけ上の類似のために、ソフトウエアの議論では表現のような修正第一条関係の問題がしばしば取り沙汰されてきた。
本の誤情報を含む複数の判例を引用しながら、ゾラーズは本の中の誤りとソフトウエアの欠陥との明白な違いを明らかにした。それには本には著作個人の考え方と表現が含まれ、それについては修正第一条のもとで責任が問われるものでないのに対して、ソフトウエアの価値はプログラマの表現であるのでばく、ソフトウエアの行動そのものにあるということだ。端的にいえば本は機能しないが、ソフトウエアはするのである。
本の誤りは著者の間違いのせいばかりでなく、読者の誤解によって生じることもあるため、無過失責任を問うことは不適切である。一方、コンピュータはソフトウエアの指示を「誤解」することはできないので、ソフトウエアの誤りはただひとえにソフトウエア工学の誤りである。実際、コンピュータはソフトウエアを通じてソフトウエア工学の指示する通りのことをするだけであり、それ以上でも以下でもない。
ソフトウエア固有の機能こそが書籍との明白な違いであり、そのためソフトウエアは芸術作品というより製品に近いものである。
出典書籍『欠陥ソフトウエアの経済学』-その高すぎる代償 David Rice著、宮本久仁男監訳、訳者鈴木順子
発行潟Iーム社、平22年3月刊行 第5章完全なる免責:訴えられるものなら訴えてみろ・・・149ー169頁より